あふれた愛

2005年1月2日 読書
ISBN:408774373X 単行本 天童 荒太 集英社 2000/11 ¥1,470

 年始から何を読んでいるのだ、という感じだけれど、大変面白いので再読。

 永遠の仔執筆当時の取材から喚起された様々な物語。
 なので、痛々しい物が結構多い。
 精神科の社会復帰病棟で知り合った男女の同棲。妄想の恋人と逢い引きを続ける少女。などなど。
 どれにも、一応の終わりがあり、それが「救われた」終わりなのかはまるでわからないけれど、読後感は意外にさっぱりとしている。
 私は「とりあえず、愛」と「やすらぎの香り」が好き。どちらも優しい。

 少し前まではフィクションとしか読めなかった内容が、ちょっと資料を調べたり、体験談を調べたりした今読み返すと、なるほどこれは別に「完全なフィクション」であるわけじゃないのだ、と気づいた。
 親を喜ばせるため完璧を目指してどこかで挫折を経験し、過食嘔吐を繰り返す、とか。育児ノイローゼで子殺しの妄想に襲われてしまうとか。
 読み手で、物語は完全に鮮やかさを変えるわけだ。

 だからこそ、少々無理に綺麗な終わり方をしているかな、と言うきらいが無くもないのだけれど、それはそれ。十分考えられた着地点であるとも思う。
 つまり、この本の何が良いかというと、そう言う人たちに向けられた真摯な姿勢が良いのであります。
 あと、タイトルも良いのであります。「あふれる」じゃなくて「あふれた」なあたりが。ね? ね。

メモ

2005年1月1日
 散財。

 ヘルシング7巻。
 おまけ漫画の阿呆さが、どんどんアップしていく。
 なんでヴァッシュが。
 すでに、オマケ漫画と中表紙のために買っている気がする。

 アシャワンの乙女たち
 ソノラマ文庫は、探すのが恥ずかしい。
 牧野修さんの学園物らしい。どんなのかな、とぺらぺらめくったら、豚豚豚、と続く文字を見つけて「さすが」とほくそ笑む。

 こんな夜更けにバナナかよ
 ようやく購入。初めてノンフィクションをハードカバーで買った。
 ずっと図書館で貸し出し中だったので、1800円を出す。
 楽しみだ。読み終わったらば、感じた事を。

---

 で、新年です。今年もどうぞ、ごひいきにして、いつかお金をください。
 リンク先の方々は、毎日見させて貰ってますので。
 シャキン、と。きちんと。

オフラインの話(2)

2004年12月31日
 車窓から牛を見て、電車の中を過ごす。
 目的地の駅に到着し、連絡を入れると「ガストまで来い」となじられる。
 昨日の優しさを知っている私は泣きそうになりながら、合流した睦月氏と一緒に駅前のタクシーを拾って、向かおうという話になる。
「ガスト●●店まで行きたいんですけど。それで分かります?」
 と尋ねると、運転手さんは「ああ、あそこね。あそこしかないね」と胸を張ってこたえてくれる。

 3メーターくらい上がって到着。
 いざガストへ乗り込み、色々挨拶を考えていると、誰もいないと言う事態。
 店員さんに一応「ここの他にガスト●●店ってありますか?」と訪ねると、丁寧に場所を教えて貰えた。
 他にもあるんじゃん。
 睦月氏と共に、呆然と立ちつくす私。目の前を通り抜ける車に、タクシーの影はない。
 とりあえず歩き出し、コンビニでタクシーを呼ぶ事に。すると、同じ運転手がコンビニ乗り付けてきた。
 嫌みの一つも言えない気の弱さを発揮しつつ、無事ガストへ到着。

 それから夕飯の買い出し、そしてまたタクシー呼び出しと続く。
「今から行くところはね、廃墟だから」
 先に到着していたれぐさん(R氏)からそう言われて、私は笑いながら「まさか」とタクシーの窓から外を眺める。結構、遠い。
 目的地に到着して、目の前に家がある。二階建ての、少し古いけれど、まあ普通の住宅である。
「なんだ普通じゃな……」
 じゃない。じゃ、無い。
 左手側に、廃墟を発見する。

 それでも住めば都である。
 タクシー組と徒歩組に別れていたのだが、みんなが到着する頃にはすでにマイルーム気分。何年も前から住んでるように落ち着いてしまう。
 しかし、落ち着きすぎて鍋の材料を切る人間がまるで現れず、ずっと水の張った鍋を見るしか無くなり、その内ガスコンロを愛で始める人間が現れる。
 コンロに火を付けてみて「良いな、これ」と叫び、鍋に張った水を見て「本当良いな」と合唱する。
 その後、鍋の取っ手を片方だけ静かに立ててみて「ジャニーズ」と叫び一同爆笑。意味は無い。

 まだ酒は入っていない。

 材料を切ってくれる勇者が現れて、やっと場は進んでいく。
 同時に、酒も注がれていく。
 天使の誘惑、越乃寒梅、シャンパン、カルア、カシス、梅酒。
 下手な居酒屋よりも豪華である。いや、最高の酒屋である。

 天使の誘惑:
 芳醇な洋酒っぽさの中に隠れる、芋焼酎の飲みやすさ。度数は四十度。しかし何かで割れない。この香り、この濃さが良い。

  +

 越乃寒梅:
 水のような飲みやすさに、きりりとした酒の辛み。
 純粋だ。ピュアだ。

 イコール。

 酔っぱらいである。
 初めて記憶が所々飛ぶのを経験する。
 確かれぐさん(R氏)に向かって「現実とつながっていたい」と手を差し伸べていた気がする。
 あと、酔っぱらいすぎてごめんなさい、という意味を含めて、やはりれぐさん(R氏)に平謝りしていた記憶もある。
 その後、あまりの醜態にぴっちさんに抱えられ外の風にあたる事になったような――気がする。
 そして泣き出す。阿呆である。

 恥ずかしいのであまり思い出したくないが、断片的に「なんでネットなんだろう」という言葉と「駄目だ」を繰り返していた覚えがある。
 しかしどこか冷製に、ぴっちさんの酔っぱらいに対する扱いの見事さにほれぼれとしていた自分もいた。
 ああ言う大人に、自分はなりたい。

 と言う事で、二日目からは酒の量をキープした。
 しかし宴の楽しさは変わらず。ちょっとしたトラブルもあったが、簡単に乗り越えられる類の物である。
 25日の東京オフも含め、とても充実した年末であった。

 でも、最後にやはり言いたいのだ。

 なんでネットなんだろう。

オフラインの話

2004年12月30日
 初日。
 東京駅でH女史とお子さんと合流。
 昔、一〇年くらい関東圏に住んでいたくせに、まるで東京周辺を見て回る事が無かったので、色々と見せて貰う事に。
 皇居のお堀で気持ち悪い動きの鳥を見たり、最高裁判所の(居もしない)ブレインに恐れてみたり、掲示板に変な事を書こうとして、良識人に冷たい目で見られるのに耐えられず逃げ出したり。
 そして「クリスマスなのだから」と靖国神社を参拝。おみくじを引くと、二人とも「吉」という中途半端な記録に終わる。
 しかし、靖国神社の人入りの多さには驚いた。自分が言うのもなんだけれど、今日はクリスマスだぞ、と言いたくなる。

 東京はもっと無機質というか、ビルがでんでんでん、とあったり、もう冷たい目をした人間が無表情でコンクリートを歩いているイメージがあったのだけれど、へたをすれば名古屋より緑が多い。
 むしろ、名古屋よりも気持ちいい風がふいていた。

 その後カラオケに行き、初めて私はラッパーになり、ヘイホーする。
 ただ喋るだけなのかと思ったら、完全に覚えていないとぼろが出そうで、ラップは難しいのだと知る。何事も経験だ。
 その後、ペガサスファンタジーを歌える二〇歳って、と呆れられるが「クックロビン音頭」(パタリロ)を歌える一九歳が友人に居るので、仕方ないと心の中で諦めて貰う。
 しかし、小沢健二を口ずさむ二歳児には完敗。

 H女史宅へ向かう途中の電車で、お子さんに、切符を指から抜くとき「シュッ」と言ーう、と言うハイテックな遊びを教える。
 その様子を見ていた前の席のカップルに「超可愛い」と褒められる。
 初めて「超」という言葉に好感を持って、意味無く照れてみる。

 H女史宅へ到着すると、おつまみとお酒。
 おつまみを食らい、うめえ、うめえと思いつつ「美味しいです」とおしとやかぶる。
 カボチャ焼酎に、栗焼酎。風味が良くて嫌な癖がない。隠れた名品である。しかも、ビンも可愛らしいと言うオマケ付き。無骨な一升瓶も味わい深いが、焼酎もこういうお洒落なビンに入るとまた趣が良い。
 他にもヨーグルトの酒を振る舞われて、ついに「うめえ」と言ってしまう。オレンジジュースと割ると、美味しいジュース(もうすでに酒ではない)に変わる酒。危険すぎる、危険すぎる、と思いながら飲み干してしまう。

 記憶・あやふや
 理性的であった事を祈る。

 夜、眠る前に色々相談に乗って貰う。
 自分の中でこだわっていた部分の氷解や、見逃していた部分、隙間やら、とにかく客観的な意見を吸収。
 確かにそれは辛かったり難しかったりはするのだけれど(溜息ばかりついていたし)、でも知らなければ良かったと言う類では決して無く。
 消化でもなく、昇華でもなく、翌日自分を見直し、落ち着く。
 対話。
 今度は、お酒を飲み交わしつつ、対面して話してみたい。

 次のオフ会場が遠いところだったので、早くに出発しお別れとなる。
 次もいつか、と本音を言葉に出して、お別れ。サヨナラバスである。

 バスの車内で、あのときああしておけば良かったとか、ここでああ言ったのは失礼だった、とか色々煩悶とする自分は、結局あまり変わらないけれど、現実で誰かと関われて、色々な物を吸収出来た事は確かで、もう私がどう干渉したかは相手に任せるしか無くて。
 H女史に読ませて貰った中村一義のインタビューを思い出して、少しだけ感傷に浸ってみる。
 東京は意外に良い街で、良い人が多いのである。

フラwhoopee

2004年12月24日
 27.5cmだと思っていた私の足サイズ。
 でも、新しく買った靴だと26.5cmで余裕がある。
 乙女のサイズである。
 深田恭子を、私は超えた。
 小指が痛い。

話題変わって。

「姑獲鳥の夏」の映画情報を見る。
 榎木津が阿部寛さん、京極堂が堤真一さん。なるほど、凄い納得。
 ただ、榎木津は小柄なイメージがあったんだけどなあ。
 漫画で言うと、ジャガーさんが一番近い。御手洗潔もそうだけど。

 そして、明日から29日頃まで留守にします。
 ぶっ倒れていなければ、また今度お会いしましょう。

百器徒然袋―雨

2004年12月24日 読書
ISBN:4061821008 単行本(ソフトカバー) 京極 夏彦 講談社 1999/11 ¥1,208

 他人の過去の記憶が「見えてしまう」榎木津の活躍を主に据えた短編集。
 今日も下僕を引き連れて快刀乱麻の探偵劇。

 この人は、短編ですら長い。
 しかし、やはり口当たりは長編よりどれだけか易しい。
 まだ読んでいない長編のお話も交錯して、なかなか流れを掴みにくかったけれど、一編でも京極堂シリーズを読んだ事がある人なら雰囲気は掴めると思う。
 榎木津の壊れ方が激しい気もするけれど。

 個人的には二番目のお話「瓶長」が好み。どの短編にも共通するけれど、するすると様々な事件が収束していく様は見事。きちんと含蓄を含ませるのもにやりとする。
 瓶長のラストシーンは、水谷豊の昔やっていた刑事ドラマを思い出した(ホンジョウさんという役名だったドラマ。なんだっけな)。
 つまり、それぐらい軽いのりで読めるから良い。

 おそらくは、京極堂シリーズを全て読み終わってから挑んだ方がより楽しめるのだろうけれど、一つがあの長さで辟易、という人はこちらに気移りしても良いかも知れない。
 しかし、いきなりこの本を読むのはオススメしない。
 最終話にして関口が出てきたところで、なんだかほっとするあの感じが味わえないから。

 にしても、背表紙の「探偵小説」が良いね。
 現している。

相方

2004年12月23日
 本日、ずっとパソコンの前にて親の年賀状作業中。
 現在も進行中ですが、なにやらパイレーツオブカリビアンがスカパーで始まったらしく、どっかいきました。

 作業中の音楽をどれにしようかな、と選んでいると、謎のCD-Rを発掘する。
 かけてみると、これがなんと堂本剛のファーストアルバム。
 懐かしい。
 溺愛ロジックは面白い。
 Fコードで難儀していたカムカムギターキッズを思い出しつつ聞き通す。
 考えてみると、なんて豪華な講師陣だったんだろう。

 グフフー。

スチャダラ外伝

2004年12月23日 音楽
スチャダラパー 松本真介 光島誠 小沢健二 CD KRE 1994/04/01 ¥2,243

 今夜はブギーバックを目当てに購入。
 ところが、毎日通して聞いている現状。

 ヒップホップやラップはそれほど好きじゃない。
 あの上滑りした格好付けが、ただ滑稽にしか見えないから、恥ずかしくなってしまう。
 でもこれって、音楽性をまるで無視した評価であると考えた。
 考えたのだ!

 で、スチャダラパーを教えて貰い、聞き始める。
 遊び心、と言うよりふざけている馬鹿みたいな曲は、等身大と言うより、ちょうど私ぐらいの低い位置にあって、面白い。
 でも、言葉選びのセンスはやはり光る。心のベストテンやら、今日おとうふ、今日……とうふ、今日とうふ、京都府? 京都いきたーいやら。
 駄洒落だけど。
 基本的に、若くない。

 だいたい、谷啓さんを尊敬するラッパーってどんなだ。

二日続けて

2004年12月22日
 私事。

 麒麟の単独DVDが出たらしいですよ。

私事

2004年12月21日
 ふりんさーん! もし見てたら携帯のほうに連絡をー!

---

 姉が携帯電話でたまごっちを飼い出すと言う奇行を。
 いまさら、と鼻で嗤ってやると、眼を輝かせて、
「新種発見だよ!」
 とのたまう。新種以前のたまごっちも買えなかったじゃないか、とは言わない。

 五歳になってくちばしが生えたらしい。
 なにっちと言うのかわからないので、私は心の中で「突起っち」と名付ける。
 おやつを上げたり、無意味にトイレを流したりしてみてたら、姉に怒られる。

 仕事から帰ってくると、姉が映画を見ている。
 一緒になってデッドマンウォーキングだったかを途中から見る。
 テロップが出て終わると、私はたまごっちの様子を覗いてみる。

 死んでた。

 姉が叫び、笑う。映画を見る前におやつをあげてたりしてたのになあ、と言う。
 なんとも難易度の高いゲームだなあと私はいまさら実感する。
 さらば突起っち。

 にしてもだ、流行とは怖い。
 これがたまごっちブーム最盛期での出来事だったら、お墓を立てるだとか、ましてや泣く人間すらいたらしいのだから。
 これでは生け贄を差し出して神様を鎮めていた昔の人を馬鹿に出来ない。

 なんか、よくわからないけど、メインは私事。
 電話ください。
ISBN:4488451012 文庫 米澤 穂信 東京創元社 2004/12/18 ¥609

 小市民を目指す少年と少女。
 探偵なんてやって目立ちたくない彼らの元に、次々と降りかかる些細な事件の数々。

 私がファンである事を除いても、質の高い日常の謎ミステリであると思うのです。
 ミステリ部分はおまけに過ぎなくて、結局は登場人物たちの魅力というのがとても良いのだけれど、決してどちらの要素が欠けていてもいけない妙なバランスの上になりたっているわけです。
 ミステリ部分が面白くないわけではなく、やはり一発のパンチ力が弱いと言うか(これは今までの作品に共通するけど)。
 日常の謎に、悶絶するほどのカタルシスを求めるのが間違っているのかな。
 それでも、最後の健吾と小鳩の応酬は疾走感があってたまらなかった。ギャグではなく、気の利いた台詞でくすりと笑うあの感覚、大好きだ。
 本当に米澤氏はこういう場面が巧い。

 ライトノベル寄りとして紹介される事が多いけれど、それで敬遠したら勿体ないほど、硬質で皮肉に満ちた書き方をする人だと言う印象が、今までよりさらに強く残った。
「氷菓」や「愚者のエンドロール」や「さよなら妖精」などよりも、そう言うところで一本通った非常のバランスの良い作品。
 オススメ。

 しかし、解説は最低。

飼い犬に誘惑

2004年12月19日

買いのがし

2004年12月19日
 今月は金がなかなか使えず、苦しく、しかし米澤穂信さんの新刊分くらいは先月から大切に取っておいているのです。

 と言う事で昨日、米澤氏の新刊「春期限定いちごタルト事件」が東京創元社より発売されたようです。
 創元社文庫なので、本屋を選ばないとなかなか見つけにくそう。
 読了後、レビューを書くかも知れません。

 そして本日は、親の年賀状を作製しなければなりません。
 百器徒然袋雨なんぞを、二時まで読むんじゃなかった。
 済ませなきゃいけない用事が多い。

 クラシックの改稿は7枚まで進行。

本作製

2004年12月18日
 友人のM氏が、早くも漫画のネームを10ページも仕上げたとの情報を仕入れ、これは負けてられないと本作りのための原稿を仕上げる準備をする。

 腎移植のお話の「クラシック」は、全面改稿。今の文体と過去の文体を見比べて「はふぅ」と溜息を吐く。成長しているのか退化しているのかわからないけれど。
 そして、脳死についての新しい資料が欲しい。古い資料を見る限り、なぜもっと問題にならないのか不思議なくらい、脳死というのはあやふやな状態だ。
 もっと知りたい。無知のまま何かを肯定するのも否定するのも怖い。
 なので私はドナーカードを持たない。

 あとは屈折した少年と、嫌が言えない少女のお話の鈍色風景も書き直そう。
 書けるうちに、書いておく。
ISBN:4062638878 文庫 京極 夏彦 講談社 1998/09 ¥840

 再読。

 ある産婦人科医院の娘婿が密室から失踪する。捜索の依頼を変な形で受ける事になってしまった関口巽。
 彼と依頼人との関係は。そして、一〇ヶ月を過ぎても生まれてこない赤子の秘密は。

 もし今、この人が文芸界にデビューしていても、相当な衝撃だろうな、と思うくらいの、新人離れした巧妙なお話。
 3作目(狂骨の夢)まで読んだけれど、一番すっきりとまとまっていて読みやすい。宗教に関する話題も一番少ないのでありがたい。

 反則ぎりぎりのトリックに、反則的な探偵に、下手すればぽいと投げ捨てられてしまうようなお話だけれど、それに整合性を持たせる、つまり作中の理屈馬鹿「京極堂」のような物語の展開が、京極夏彦さんの良いところだ。

 頭が良く、博識である、ととらえるのは少し安っぽい。
 そんな人間はわんさか居るだろうと思う。ただ京極氏の場合、世の中(というか、世界)のとらえ方が面白い。
 それを的確に文章にするのだから、面白くないはずが無いのだ。
 とはいえ、理解できない人には絶対に理解されないであろう論理でもあるな、と思う。
 個人的に、夢の話のくだりはとても面白かった。

 完全版であるハードカバーの「姑獲鳥の夏」も読んでみたくなった今日この頃。
 しかし、宗教のお話部分が増加されただけのような気もするな。
 二十四小節の旅。

 小説のアイディア帳を見ていたら出ていたアイディア。

「犬が人間に必要とされる事で進化して言葉を喋る」

 すばらしく色々無視したアイディア。

「包茎の中に何かを隠す」

 完全犯罪。

「毒をもった人間」

 ありそう。

「講談社ノベルスの背表紙の色を16進数で表し、それをどうにかすると文字が現れるトリック。京極、とか森とか、書いてある。」

 使った。

ま・と・め・る・と。

 何が書きたいんだこいつは、と思わずには居られない。
 一六小節の旅。

 最近、ネットの距離感について考える事が多い。

 なんて遠く近い物だろう、と思う。
 仕草、言葉のニュアンス、態度、全ては文字に含まれないが、相手には文字こそが全ての情報として頭に入っていく。
 些細な言葉すら、人の頭は断片をつなぎ合わせて自分の都合のように構築するかも知れない。
 これが困った物だ。

 見知らぬ実像が、勝手に相手の中で作られる。
 自分もやはり文字なのであるから、それは両者に言える。
 ずっとネットだけの関係を続けていると、齟齬が知らないうちに始まるだろう事は、目に見えている。
 そして、その齟齬はなかなか現実と違い露見しない事が多い。
 この人はこういう人だという決めつけは続いていく。心地よく。
 おそらくその人は、モニタの向こうでは感情のあるただの人間である。
 この「感情のある」が抜け落ちた関係が結構多い気もします。

 で、この齟齬だらけの関係を、脆い関係と取るかどうか。

 さめた考えかも知れないけれど、脆い。
 回線を切断すればそれで終わり。居ないように振る舞う。ページに訪れないようにする。メールを出さない。それで終わり。
 逃げ場がたくさん用意されている場で、真剣に何を考えるのか。
 そもそも、真剣に相手の事を思いやる事を、何人の人がネット上で思うのか。

 妙な距離感である。一昔前だったら絶対に存在しなかった人との距離(文通は、遠いからこそ近い感じなので、分けて考える)。
 だから時間が経つにつれて、だんだんと真剣に相手の事を考える人が増えては来ていると思う。だから、真剣に誰かは答える。応える。
 携帯電話の普及は、すばらしいタイミングだとも思うね。
 電話は嫌いだったけれど、最近は少し考えを変えた。声という存在と、一対一の場は、なかなか必要みたいだ。

 さめて考えているからこそ、私は予断をしないし、出来るだけ真剣に考える。
 確固とする方法だって、色々あるはずだ。
 誤差の修正だって、互いに子供じゃなければ本当は容易だ。

 そういう考えは若いな、と言われればそれまでだけれど、今考えられる自分の精一杯がこれだから、これに乗るしかない。
 一度きりの人生なら、ちょっと親に迷惑をかけるかも知れないけれど、この思考の流れに乗ってやる。
 困っている親しいネットの友人が居れば、自己犠牲なんて格好良い言葉は使わず、互いに助け合ってやる(押しつけ)。
 そりゃ俺だって人間だ! 結構いろいろ辛いさね!

 という事で、結構みんな好きなのだが、これは押しつけがましいので。
 だから、適度に。自分の生活も忘れない程度に、がんばるつもりだし、そこのところは結構、がんばって欲しい。
スネオヘアー 渡邊健二 CD ERJ 2004/12/15 ¥2,500

 本人いわく一番好きなアルバム。

 確かに、聞き返すたびに、心地よさが増していく。
 一聴目は、とにかく初っぱな「ストライク」「テノヒラ」「LIST」の流れにやられていたのだけれど(久々に鳥肌とともに泣いてしまうという)、これが聞き込んでいくと、その後の流れがとても落ち着いて聞ける事に気づく。

 激しさはいっさい無いが、静と動の繰り返しが心地良いのかな。
 その音楽に載る詩もまた、目線がちょうど良い(でも、今までと違って、どこか外向的な気がする)。
 ここまでラフに聞けるアルバムも久しぶり。もう五周目であります。

 しかしだ、華やかさが無く売れるのかどうかがちょっと心配。
 試聴で買う人は、もしかしたら最初の三曲の流れに騙された、とすら思うかも知れない。そういう感覚がついてしまうと、もうだめであろうと思う。
 スネオヘアーを初めて楽しむなら前作の方が良い気もする。でも、こちらも良い。うーん。
 でも、どっちも良い。

 期間限定で2500円という値段設定も面白いね。
 二月までらしいので、お好きな方はお早めに。

悩みどころ

2004年12月15日
 ルームシェアの話が来ている。家賃を負担し合って、他人同士で住むあれね。
 なかなか気の合う人らなので、他人同士とかそういう感じは無いのでそこらへんの心配は無い(もう五年も付き合っているか)。
 ぐだぐだと、このまま短い時間アルバイトをしているだけの生活というのも、そろそろ脱却しなければいけないんじゃないか、とも考える。

 しかし、少しだけ通信制の高校に興味があったりする。
 こう見えても(どう見えているかは知らないけれど)小学校、中学校と合わせて登校した日数は一〇〇日を少し上回る程度であると思う。
 なので、勉強というのも少ししてみたい。高校卒業の資格も取りたい。

 だけれど、やはりルームシェアという響きは甘美だ。
 同時に実現するとなると、つまり働きつつ、通信制のレポートを提出して、一人暮らし的な事をこなし……
 耐えられるのか。そう心配になりもする。

 二〇歳がまさか本当に節目になるとは思わなかった。
 こうやって悩んでいるのも、そんなに嫌ではない。どちらにしろ、自分の糧にはなりそうだな、と思う。

 ただ、小説を書く時間が完全に無くなりそうなのが、恐ろしくはあるけれど。
 あ、あとこの大量の本を持って行けないのも少し悲しい。
 とりあえず、ハードカバーのアトポスだけは持って行こう。

アイデーア

2004年12月14日
 そろそろ小説を書かなければ鈍ってしまうと思い、いろいろプロットを組み立ててみる。けれど、どうもうまくいかない。
 今までの私の執筆の流れはこうだった。

-----

1
 まず大本になるテーマが一つある。そしてそれを語れる状況を作り出す。頭で考えたり、メモ帳に打ち込んでみたりして眺める。
 このとき、嘘くさくならないように気を遣う。小説家は偶然をどれだけ嘘くさくなく書けるかが腕らしい。
 それこそ嘘くさい。

2
 登場人物の設定を作り始める。身長、身体的特徴や癖、好み。
 そんな細かくなくて、私は上記のあたりをいくつか思い浮かべて、人物像を作っていく。
 だから、名前と身長と一人称だけしかメモ帳には書き出さない。
(1と2の順番が逆の場合もあったりする。結局、小説は人間を書かなければいけないし、こういう人を書きたい、と思うこともあるし)

3
 メモ帳にあらすじを書いてみる。始点と終点を思い浮かべて、始点から書き出していく。
 後々に重要となる情報は括弧書きで記しておく。いわゆる伏線の付箋(だじゃれ)。

 登場人物たちの動きと、書き出したい場面を思い浮かべて書いていくと、勝手に登場人物が動き出し、結局終点は変わる場合がほとんど。

4
 プロットを見返して、冗長だな、と思うところは削ったり変えたりしていく(でも、たいていこれをやって書き上げたお話は面白くない)。
 破綻が無ければ書き出すけれど、結局プロットじゃわからないところでほつれが出てくる。それを無理矢理結ぶのがしんどい。
 面倒。苦行。
 しかし、時々自分でも驚くような気の利いた文章が出てくるとき、報われる。

5
 それでも何とか書き上げる。読み直し、誤字のチェック。使用している漢字の統一なんかもこの段階で直す。
「事」を「こと」と書くかどうかでも、雰囲気ががらりと変わる気がしてくる。果たして気のせいか。

 ここで「最悪だ」と落ち込む。面白くも何ともない、とへこむ。

6
 何とか誤字のチェックも終わったら冷静に読み直し、文章のリズムをチェックする。おかしなところがあれば書き直す。
 それからもう一度読み直して、また「最悪だ」と溜息を吐く。

 それからプリントアウトする。
 赤ペンを手に取り校正。主にリズムと誤字のチェック。
 モニタの前で見るのとはまた違う箇所がいっぱい出てくる。
 それで、怖くなってくる。
「これは、全部直せるんじゃないか、これは良いのか? だめなんじゃないか?」と不安になってくる。

7
 チェックを入れたところを直し、印刷し読み直してみる。
「最悪だ」と溜息をついて、しかし妙な愛着が湧いてちょっとだけ笑う。

 穴を開けてひもでとじて、文藝春秋の「藝」を何度も間違えて封筒を捨てていく。

----

 こんな感じだった。

 プロットの量は、人によってまちまちらしい。
 殊能さんは、章ごとにわけて、絶対に出しておかなければならない伏線を書き出すだけと言うし、貴志祐介氏なんかは、プロットだけで原稿用紙100枚分くらい行くらしい。

 しかし共通しているのは、最後まで考えてから書き出すこと。
 これは重要らしい。米澤穂信さんも説いていた。
 確かに、どんな事でも終わりが見えてなければ、やる気も起きなければ、軌道にも乗らない。

 こう、作業工程を書いてみると、別段小説を書くというのも特殊な事柄ではなく見えてくる。
 あとはセンスと時間だけで、誰にだって出来る事なわけだ。
 魔法じゃなく、地味な作業です。

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