害虫育成

2004年9月10日
 なぜ害虫であって、昆虫ではないのか。
 いつ頃から私たちはゴキブリや蜘蛛を嫌悪するようになったのか。
 意外とあやふやでわからない。
 でも、誰かに教わったわけではない、と言う事だけははっきりとしている。
 それじゃあ「差別」のような感じかな? と思うけれど、周りが「ゴキブリ嫌い」と騒ぐ前から、ゴキブリを嫌いであった気もする。

 例えば私の家族は全員蜘蛛がそれほど苦手ではないと言う、少し変わった家である。一度、手に乗せて「蜘蛛は神様のお使いだから」と外へ逃がしてやっているのを見て、卒倒しそうになったのを覚えている。
 これが、幼稚園くらいの出来事であるから、その頃から私は蜘蛛が駄目だったのだろう。親の教育としてはむしろ「蜘蛛は良いもん」であるはずだ。
 子供的に考えれば、良いもんは限りなく良いもんであるはずなのに、どうしてだろう。

 ある人から、不潔感があるから、と言うアイディアを頂き、大いに納得する。
 コオロギは良くてもカマドウマはさわれない。カブトムシは良くてもゴキブリはいけない。
 つまり、フォルムではなく、その害虫の生活環境を考える事によって、私は害虫を害虫と認識していたわけである。

 しかし、そういった害虫が「平気な人間」もまた存在する。家の親のように。
 これはなぜだろう。

 ここで、上記のアイディアが出る前に私が立てた説を持ち込むとする。
 ゴキブリや蜘蛛を害虫であると、子供はどうやって認識したのか、と考えると、周りの微妙なそぶりである、と感じる。またはテレビか。
 声を大にして言わなくとも、子供はそれを感じ取り、無意識にゴキブリや蜘蛛を害虫であると判断する。
 つまり、環境だ。
 幼稚園の頃、親と過ごす時間と、幼稚園に居る時間、または友達と居る時間を考えると、環境としては「親の外」である時間の方が長い気がする。そう考えると、私だけが蜘蛛嫌いである理由も頷ける。
 ちなみに、親は兵庫の山に囲まれたところで幼少を過ごしていた。
 皆が、蜘蛛やゴキブリを嫌う微妙なニュアンスを感情や表情で出して、私の中でそれが増大し、さらにそいつら(害虫)にたいする知識(生活環境)を身につけ、結果「さわれもしない害虫」となったわけだ。
 これらのどれかが欠如していれば、きっとそれほど嫌いでは無かったと思う。

 さあ、やっと前ふりが終わり、書きたい事が書ける。

 同じ事が「ちんちん」にも言える。いや、総括して言えば「エロ」だ。
 どうして「エロ」を「エロ」だと幼稚園の頃から認識出来ていたのか。

 エロを良しとしない、またはエロを禁句とする雰囲気(風潮?)が世界には満ちあふれている。
 だからこそ、幼稚園児はそれを感じ取り、子供の残酷さ(?)を発揮し、あえて連呼し爆笑するのだ。
 これって、深く考えるとちょっと怖い問題だ。
 子供って、こんなふうにタブーをあえて冒している生き物である。信号は青で渡れ、と言われればちょっと赤で渡ってみたくなる。しかしここでブレーキがかかるのは「自分の命」が関わってくるから。
 もし、自分の命が掛かっておらず、それが他人を傷つけるタブー行為であるとしたら。それをずっと制御する人間が居なかったら。
 それを矯正していくのが教育というわけだ。大小はあれ、タブーをどれだけ教えられるかが、親や学校の腕の見せ所だ。

 まあ、大半嘘だけど。環境に寄る、と言うのを大げさに言いたかっただけ。というか、ちんちんが言いたかった。
 でも、時々アンダーグラウンドの世界にあるものや、狭い世界の物を表に持ってくる人がいるけれど、大人になって「ちんちん」と連呼し爆笑するのと同じくらい恥ずかしい事だと思う。
 こそこそやろう。

 でも、エロだけは大人になると少し歪な素敵物(ステキブツ)になりますね。

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